夏目漱石の晩年

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筆者は文学部の卒業論文で漱石をとりあげ、吾輩は猫であるにおいて苦沙弥が漱石の戯画化であることよりも猫と人間の食物がそれぞれ日本人と西洋文化の寓喩であることの方が重要であるとか、漾虚集において日本的な情緒を西洋の形式に乗せる試みがなされている流れから薤路行は比較的古い作なのではないかとか、草枕は俳句的小説の完成形であったが西洋人には理解されなかったなどと述べた。

しかし、漱石が教師を辞めて以降の話には触れずじまいだったので、改めて書いてみた。筆者は草枕の頃の颯爽とした漱石が好きであるが、だからといって晩年の漱石を捨て置くわけにはどうにもゆかない。もちろん、卒論を書いたときほど真面目に調査していないし、査読されるわけではないので書きたい放題を書き散らしている。

朝日新聞入社後

草枕までの漱石は、作家として順風満帆だった。その後二百十日で台詞劇に手を出すが、これは英文学を勉強した作家であれば誰でもが通る道なのでとりあえず置く。1907年の朝日新聞入社を以って、学者の片手間からプロの作家になるわけだが、その直前直後に執筆した野分と虞美人草あたりから、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。

1908年11月、漱石の鼻息はまだ荒い。

或は、最も多い報酬を得る者が一番好い職業だと云う標準も立つ。然うすれば実業家が一番偉い職業になって了う。或は金以外評判と云うものが得られるのが一番好い職業だとも言われる。すれば芸人とか芸者とか、相撲取りとか云うものが一番好い職業である。其他其通りのことを列挙すれば幾らでも出て来る。際限の無い話である。従って文学は男子一生の事業とするに足るとか足らないとか云う問題も、要するに標準の立て方で、古今未曾有、無類飛び切り上等の職業ともなるし、天下最下等の愚劣な馬鹿気た職業となるかも知れない。だから標準の取り方で以て何うにでもなる。結論だけを言うならば、それは極く簡単で、只、吾々が生涯従事し得る立派な職業であると私は考えて居るのだ。

文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」より。
テキストは青空文庫による(改行や段組を改め、振り仮名は削除してある)(以下断りがない限り同様)。

日本国内では大絶賛を受けた草枕を、西洋人は歯牙にもかけない。それどころか、わざわざ手にとって読んでみるですらない。虞美人草、坑夫と続けた渾身の作は、国内でも草枕ほどは受けなかった。夢十夜で後戻りをしようとも試みたが戻れなかった。妥協と苛立ちの中で三四郎、それから、門と書きつづけた結果が修善寺の大患である。

上で引いた宣言の後、漱石はこう続けている。

何だか逃げ腰のような、ふわふわした答弁で、中までずんと突き入ってないので、何となく物足らない感じがあるかも知れない。それは中へ入って急所を突いた答えも、すれば出来ないではないが、それでは却って局部局部を挙げて論ずることになって不本意であるから、斯う云う全体を掩うたような答えをして置く。

結果的に、漱石の強気よりも弱気の方が実際になったわけである。

遠くから見れば、勇み込んで書いた虞美人草や坑夫よりも気軽に書いた猫や草枕が受け入れられたのはわからないでもない。漢詩を読んで感動した日本人は星の数ほどいるが、和歌を読んで感動したという中国人の話は万葉集から1200年(古今集から数えても1000年)以上経った明治の末にも聞いたことはなかっただろう(さらに100年ほど経った現在でも、そんな話はとんと聞かない)から、草枕でそっぽを向かれたくらいで漱石が焦るのは不合理に見えるかもしれない。

大患後1

1910年8月、漱石は大吐血を起こし危篤状態になる。これは漱石の敗北だった。大患の後すぐ、漱石はやけばちとも思える勢いで論を吐き文を綴るが、その姿勢が従来とは少し変化する。

高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点嗜好に投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支ないでしょう。そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のためにするというのではなく、天然の事実そのものを引きくるめて何でもかでも人に歓迎されるという意味の「ためにする」仕事を指したのであります。

道楽と職業」より(以下この項目で同様)。

ここまでは文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎で言っている「標準の立て方」の例と変わりないが、

元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞を拵えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。

今度はいったん立てた標準にケチをつけて、

ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに仕方がないのです。

ご都合主義の翼に乗って遠い世界に飛び立ってしまう。

もちろん、漱石が不誠実な人間だったわけではない。ただ混乱していただけである。むしろ、立ち上がって再び創作と論説を始めただけでも奇跡のような話である。また、言っている内容にはそれなりの一貫性がある。3つめの引用は、文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎で曖昧なままにしていた「急所を突いた答え」と同じものであろうから、1908年の時点では公言していなかった乱暴な部分が、背に腹を代えられなくなって精錬されないまま(例外を設けて問題を回避するにしても、例外を設ける動機付けをするにしても、もう少し丁寧なやりかたがあったはずだし、漱石にその能力がなかったとは到底考えられない)表に出てきたのだと言えよう。

さて、ここまで見てきた漱石の性急さは、どこから来るものであるか。国だの社会だのというものに興味を持たず、自分の身ひとつかわいがればよいという向きには理解しがたいかもしれないが、漱石というのはもともと「洋学の隊長」である。明日にも列強に呑まれてしまいそうな、なんとしても西洋に伍さねばならない当時の日本にあって、文学を担当した憂国の士である。隊長だ憂国だと大げさなことを言わないまでも、自分を打ちのめした西洋文学に一矢でも報いられるなら、何者も惜しまない人である。もちろん、その過剰な責任感が悪い方向に向くこと(なかでも一番良くなかったのは、漱石自身の健康を害したことだろう)もあったのだが。

大患後2

大患後の漱石は作風が変わる、とよく言われるが、ではどのように変わったのか。一言で言えば道徳を中心的主題に据えるようになる。

文芸の目的が徳義心を鼓吹するのを根本義にしていない事は論理上しかるべき見解ではあるが、徳義的の批判を許すべき事件が経となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、またその事件が徳義的平面において吾人に善悪邪正の刺戟を与えるならば、どうして両者をもって没交渉とする事ができよう。

文芸と道徳」より。

というのである。言っていることはもっともであるが、なにやらまた歯切れが悪い。どうもすっきりとしない言い方である。種明かしをすると、この「道徳的な問題に注意を払え」というのは、19世紀のイギリスで流通していた文学論そのままである。ついでに言うなら「人の耳目を楽しませよ(漱石の言葉を借りれば「他人本位」で「人に好かれ」よ)」というのも、伝統的にイギリスで受け入れられていた論法である。

ここに、西洋の文学を「敵」と呼んだ漱石が膝を折った。洋学の隊長が白旗を揚げた。日本独自の文学を求めていたはずの作家が物真似を始めた。誰にも理解されないままにである(子規でも存命ならまた違ったのかもしれないが)。翌1911年にも入院をしつつ、1912年には彼岸過迄を執筆する。

晩年

そもそも、漱石の打ち上げた「自分本位」と「他人本位」という考え方は根本的に矛盾していた。イギリス(もっと広く言えばヨーロッパ)において「人の耳目を楽しませ、かつ人を高尚にする」というお題目が通用したのは、言うまでもなくキリスト教の支配下にあった(乱暴に言えば、高尚なものであれば「楽しい」とも言わずには済まされず、楽しいのであれば高尚なのに違いないと言える土壌があった)ためでである。ギリシア人の言った「真善美」であればもう少し容易に受け入れられたかもしれないが、漱石には3000年分も遠回りしている余裕がなかった。

結局漱石はその矛盾を正面から背負い込んだわけで、1913年に入ったころには心身ともにぼろぼろの状態であった。のみならず「模倣と独立」というもうひとつの矛盾も抱え込んだ。

われわれ日本人民は人真似をする国民として自ら許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通り遣らなければ茲処に達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜しい。また来るべきはずである。

模倣と独立」より。

もちろんこれが暴論であることは、インデペンデントになろうとして墜落した漱石自身が一番よく知っている。そもそも100年や200年で成せる業ではない。それを承知で、若い人たちの前でこういうことを言った漱石というのは、とうに自分を投げ出していたのだと思う。事実ここから先は、矛盾を矛盾のまま背負い込み、命が尽きるまで書き続けるのみであった。行人、こころ、道草、明暗と続く作品は、まとめて遺作とみなしてよいのかもしれない。

芥川への書簡

少しだけ脇に逸れる。

漱石と芥川が接した時間は意外と短い。芥川や久米らが木曜会に参加したのは、漱石が亡くなるちょうど1年前の1995年12月である。当時漱石は「道草」を完成して「明暗」を書き始める前、芥川は「羅生門」を発表して「鼻」を発表する前ということになる。

漱石から芥川と久米に宛てた書簡に興味深い言及があるので以下に引く。

根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、花火の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後から出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

漱石は足場を「自分本位」の方に置き「超然として押して行」けと書いている。先に引いた「道楽と職業」でも「科学者哲学者もしくは芸術家のようなもの」は自分本位であるべきだと述べており、芥川に宛てた別の書簡でも「群集は眼中に置かない方が身体の薬です」としているので、これは一貫した態度である。そうして、自分本位から出発するのではあるが、最終的な目的は「世の中」を動かすことであるから、これは他人本位に分類してよい。自分本位から出発して他人本位へ、その橋渡しが「根気」だと書いている。

で若し、この俳句的小説――名前は変であるが――が成立つとすれば、文学界に新らしい境域を拓く訳である。この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論無い。それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に於ける新らしい運動が、日本から起こつたといへるのだ。

「余が『草枕』」(漱石全集:岩波書店)より。

このときの自分を「馬」と評した漱石が、芥川(と久米)に「牛」になれと諭すのである。

漱石のこだわり

さて、漱石には、その晩年をもう少し平穏に暮らす道もあったのではないかと、不思議に思う読者がいるかもしれない。実際、日本の近代史を紐解けば漱石の業績は偉大であり、これを不十分だとする人は皆無だろう。草枕のような作品が生まれただけでも、貫之が古今集を編んだのに比肩しうるくらいの価値がある。

けだし漱石は、意地を張ってむきになったのではないか。自分に向けられる公の期待とは別のところで、何としても我等西洋に伍したりと言えるようなものを作りまた日本人にそれを理解させたいと願ったのではないか。自分の発する要求を他人の間に生ぜしめんとして、西洋人に頭を下げて褌を借り、足場のない中に根気を沈めた漱石の晩年は、なんとも凄まじい。

子供じみていると感じる人や、見栄坊の成せる業だと非難する向きもあるかもしれない。それは一面で正しい認識だと思う。しかしそれは汚点でもない。漱石は最期まで夏目漱石をやりおおせた。成否巧拙を論うまでもなく、そのことだけでも頭を下げるのに十分な理由ではないか。

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